お花見文化をプロデュース 名君・徳川吉宗
今から250年も前の江戸中期。上野寛永寺(かんえいじ)や墨田堤(すみだづつみ)、飛鳥山(あすかやま)、御殿山(ごてんやま)、小金井の玉川上水などといった桜の名所は、今と同様大勢の花見客で賑わっていました。殿様やお大尽は、花見幕の中で豪華な宴。下級武士や庶民も、茶屋や団子屋が立ち並ぶ中をそぞろ歩きです。若者は仮装や茶番劇を楽しみ、女性は精一杯着飾っています。花見幕の隙間から憧れの若様やお姫様の様子が見えるのも、逆にお殿様たちが美しい町娘に出会えるのも、お花見ならではのことでした。
けれどこのような風景は、身分制度や男女の区別が厳しかった当時、世界的にはとても珍しいものでした。ヨーロッパのピクニックやガーデンパーティーは、あくまでも貴族や富豪だけのもの。庶民も支配階級も、男性も女性も、同じ場所に集まってアウトドアライフを楽しむなどという風習は他に見られなかったのです。
その背景には当時の江戸が世界でも稀な百万都市だったことが挙げられます。同時期のパリは54万人、ロンドンでも86万人でした。しかも、いわゆる江戸と呼ばれる範囲は現在の山手線内と隅田川東岸の下町あたりまで。その7割を武家屋敷が占め、残り3割を寺社と庶民が分け合っていたのですから、熊さん八っつぁんの長屋がいかに狭いエリアにひしめいていたかがわかります。
実は、現在につながる花見の風習をプロデュースしたのは、八代将軍徳川吉宗。江戸城下の景勝地に桜の植樹を進め、庶民にもお花見を奨励したのです。その目的は、庶民の憩いの場を作ること。華やかなお花見に出かけることで、狭い長屋暮らしの憂さを晴らすことができたのです。
財政再建のため厳しい倹約・増税政策を取った吉宗も、庶民の不満解消を忘れなかったのは、さすが名君といったところですね。