ルピシアだより 2016年3月号
チェック

春はお花見

お花見文化をプロデュース 名君・徳川吉宗

今から250年も前の江戸中期。上野寛永寺(かんえいじ)や墨田堤(すみだづつみ)、飛鳥山(あすかやま)、御殿山(ごてんやま)、小金井の玉川上水などといった桜の名所は、今と同様大勢の花見客で賑わっていました。殿様やお大尽は、花見幕の中で豪華な宴。下級武士や庶民も、茶屋や団子屋が立ち並ぶ中をそぞろ歩きです。若者は仮装や茶番劇を楽しみ、女性は精一杯着飾っています。花見幕の隙間から憧れの若様やお姫様の様子が見えるのも、逆にお殿様たちが美しい町娘に出会えるのも、お花見ならではのことでした。

けれどこのような風景は、身分制度や男女の区別が厳しかった当時、世界的にはとても珍しいものでした。ヨーロッパのピクニックやガーデンパーティーは、あくまでも貴族や富豪だけのもの。庶民も支配階級も、男性も女性も、同じ場所に集まってアウトドアライフを楽しむなどという風習は他に見られなかったのです。

その背景には当時の江戸が世界でも稀な百万都市だったことが挙げられます。同時期のパリは54万人、ロンドンでも86万人でした。しかも、いわゆる江戸と呼ばれる範囲は現在の山手線内と隅田川東岸の下町あたりまで。その7割を武家屋敷が占め、残り3割を寺社と庶民が分け合っていたのですから、熊さん八っつぁんの長屋がいかに狭いエリアにひしめいていたかがわかります。

実は、現在につながる花見の風習をプロデュースしたのは、八代将軍徳川吉宗。江戸城下の景勝地に桜の植樹を進め、庶民にもお花見を奨励したのです。その目的は、庶民の憩いの場を作ること。華やかなお花見に出かけることで、狭い長屋暮らしの憂さを晴らすことができたのです。

財政再建のため厳しい倹約・増税政策を取った吉宗も、庶民の不満解消を忘れなかったのは、さすが名君といったところですね。

野点(のだて)のススメ

寒さが緩み、光が麗らかに降り注ぐ春。思わず外に出たくなるそんな日に、野点を楽しんでみませんか?

野点と聞くと、「お作法や道具が難しそう」と思うかもしれません。確かに本来の意味は、野外でお抹茶を点てる、またはそのお茶会のことを指します。

でも、その究極の心は折々の季節や自然とふれあいながら外でお茶を楽しむこと。お茶を入れた保温ボトルとお菓子を携(たずさ)えて公園に出かけ、外の空気や草花を楽しみながらお茶をいただく。それだけで充分野点の気分を満喫できるのです。

お花見は屋外でお茶を楽しむ最大のチャンス。小さなお重やお弁当箱に干菓子や桜餅、三色団子などを彩りよく詰め、湯のみやカップを用意していけば雰囲気もばっちり。ボトルにはお湯を入れておき、お気に入りのお茶のティーバッグなどを用意し、その場でお茶をいれると、より美味しく感じられます。

ルピシアのある男性スタッフは、お花見に台湾式の工夫(クンプー)茶器を用意し、珍しいお茶のいれ方を披露して女性の注目を浴びようとしたところ、女性ではなく子供たちがたくさん寄ってきたそう。その時の目論みは外れたとはいえ、屋外でお茶をいただくことは、その場の心を一つにする楽しいコミュニケーションツールだと言えそうですね。

インド・ダージリン秋のお花見!?

各国に花を愛でる習慣はあっても、花の下に大勢で集い宴会をする「お花見」は、世界でも珍しい文化だそう。近年では桜のシーズンを選んで訪れる外国人が増加しており、観光庁によると、昨年3月の訪日外国人は初の150万人超えを記録したとのことです。

このように日本独特とも言われているお花見ですが、実はおたより編集部には日本以外でもお花見をする人々を見たことがあるスタッフがいます。あれは秋摘み紅茶の取材で10月末にダージリンに行ったときのこと。気候もよく、茶畑の向こうの澄み渡る空に、雪を冠した雄大なヒマラヤ山脈が浮かび上がっていました。

取材の合間、茶畑の側をぶらぶらしていると、樹々の間から白い霞のような塊が目に飛び込んできました。「何だろう?」と目を凝らしてみれば、なんと満開の一本桜ではありませんか! 思いがけない場所で出会った馴染み深い花に思わず駆け寄ると、そこには桜を見上げながら和気あいあいと昼食をとる現地の家族の姿が……。

後で調べたところ、あれは秋から冬にかけて咲くヒマラヤザクラだったよう。遠く離れたインドでもお花見をするんだなあと心に残り、10年以上経った今でも、桜の季節になるとそのときの光景を思い出すのだそうです。